昭和56年9月15日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第九十二節 「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
自分に都合の良い事、自分の思い通りになる事、誰でも、喜ばないものはありません。これは信心があってもなくても同じです。そこで信心とは人が喜べない、いや勿論、右と願って左、左と願って右と、タイミングが崩れてくる。そういう場合にあっても喜べれる稽古が信心だという事になりますね。おかげを受けてあり難いとか自分が都合の良い時にあり難いというのは信心が無くても誰でも喜びますし嬉しいと思います。ですから嬉しいと思われない、あり難いと思われない、その事の中にあり難いを感じさせていただく稽古、その中に、喜ばせて頂く稽古が信心なんです。そこのところをはっきりしておりませんとね、信心の稽古ちゃおかげを頂く稽古のように思います。それを昨日のご理解から申しますと、ね、人に例えば利用されたり馬鹿にされたりある場合には、危険を感じたりある場合はこれは回り道になったというような場合でも、もう御神意に一分一厘間違いのない、自然の働きだと分かる事だと。そこにいわば人間凡夫では分からない世界だけれども、それを分かってくるようになり、御礼を申し上げれれる稽古になってくる。それを、実験実証させて頂きよると、なるほどあれがおかげであったという事が分かってくるのです。
ね。なら、思うようになるとか、自分の都合の良いことが例えばおかげではないということなんだ。それだったら誰でもがあり難いという。信心とは結局ありがたくならせて頂く稽古なのですから、それとは反対の時でも、芯から心から喜べれる稽古なのです。それにはただ、よく申されます事の中に、あの人は中々の喜び上手だと申しますけれども、ただ、喜び上手じゃいかんです。ね。当然賀ぶ事が本当だと分かっての信心でなからなければならない。そこを合楽理念では説くわけですね。なぜ、自然を大切にしなければならない、成り行きそのものを何故大切にしなければならないのかと、一切の事柄にどんなことがあっても御の字をつけて御事柄として受けなければならないかというわけを聞かせてもらう、だからそうかなあと半信半疑でそれを実験実証していくうちにです、なるほどいうなら教祖の言葉を借りると難はみかげと仰る、その難は本当はおかげへの事だなあという事が分かってくる。そこには一切が神愛、一切がおかげおかげで喜べれる生活に入っていくことが信心生活なのです。中々自分が思うようにならないときには心が暗くなる思いが致します。けれどもそういう時にはいよいよ心を大きくしていけよという神様の働きなのですよ。だから心がその事によって心を大きくしていくからまた、おかげも一回り大きくなってくるのです。大きなおかげを頂きたいというても小さい心ではおかげを受けられません。その事によって力を受けるのです。だから百斤もてる人がもう百二十斤、百五十斤の願いをしても五十斤は置いていかなければなりません。だから事毎に私共が力を頂く一つのまあ材料とさせて頂いて百斤でも二百斤でも持てれるような力を頂くことに精進する事が信心だと言うふうに分かります。
昨日の研修の時も、私は昨日のご理解をね、今日のご理解が合楽の信心をするならここのところを基本として、いうなら腹の立つ普通なら問題であっても、人に馬鹿にされたり利用されたり、そげな遠回りせんならんといったようなことでもです、それをご神意として頂くという事が根底なんだ。だからここを皆信じて、聞けたかどうが、を皆に聞きました。皆がそうだと信じたとこういう。なら皆はもう絶対おかげを頂かれるばいと申しました事でした。合楽でこれは皆さんどうでしょうか。自分の思いようになる事だけがおかげで、思うようにならん事はおかげではないというような間は合楽の信心が一つも分かっていない証拠です。その事一つを分かっていないという証拠です。合楽の信心が分かるという事はどんな場合であっても御の字がつけれる内容。それを昨日は私の御夢の中から聞いて頂いたのですね。ですから本当に信心を見に付けたいというならば、その、自分の思うようにならない事を本当に神愛と分かるところまで追求していくという事が入ります。昨日の朝福岡の高橋さんが御届けをされますのに、昨日の朝奥さんが御夢を頂いた。それが、天井に一万一千八百円と書いてある。ほりゃ一一八と書いちゃると思うてみよったら、ねずみがそれをかじる所を頂いたというのです。
それはもう今日のご理解たいというて昨日のご理解のことを申しました。ね。もう、一一、一つ一つが、広がる事の為のおかげなんです。そこに勿論自分を空しくしていく稽古をさせて頂いて、自分を空しゅうしていく。〇が大きくなればなるほど、一万一千八百円という事は十一万八千円という事になるでしょう。0が自分を空しくしていく。もう限りないです。いわゆる広がりに広がる、いうならば手立て計らいを神様から頂いておるのに、これほど信心するのにどうしてこういう事になっただろうかというような思いがあったのでは、もうそれがねずみです。いわばそれをかじってしまっておるという。まあ全く合楽の朝のご理解をそのままあちらは、その朝、ご理解をね、しかもその芯をね、頂いておられるという事が分かります。ですから昨日申しました事は、どうでもいいというようなこの、安易な受け方ではなくて、もう絶対のものとしてそれを受ける。どんなに回り道になろうが、どんなに危険を感じるようなことがあっても、または馬鹿にされたまたは人から俺を利用してからと、思われるようなときであってもそれは、おかげであるから御礼を申し上げてどうしてという事を使うなと。一々八、一つ一つがおかげを頂く材料なんだ元なんだ、広がりに広がっていく、おかげを下さろうとしておる神様のご神意なんだよという事でしょうが。
ね。神は一体じゃによってと神様は一体なんですから合楽的に合楽流というよりにもこれは、ほんとにお道の信心をさせて頂くもの全部が神のお心を分かって、そういう受け方頂き方になったら、ね、おかげが受けられることであろう。ね。神様が決してえこひいきをなさる事はない。最後にまあ取次者がまあ早く起きるのと遅く起きるのとは参拝の者の早い遅いに関わるぞとこう仰る事なんかはとにかく、心次第だよと。自分が百の力を持って一生懸命に神様に向かえば向かっただけのおかげが受けられるのだぞと。その向かい方をです、間違いの無いところに焦点を置いて、間違いのないところの教えを頂いてそれに打ち込んでいくのですから、こんなあり難い素晴らしいことはないのですたい。大体。ね。それはもう大変に熱心に打ち込んだという人があります。私共知っておる範囲でもそうです。けれども結局焦点を間違えて打ち込んだのでは本当のことにならないのです。ね。絶対なんだ。例えば昨日から頂きますようなご理解、いうなら今日頂きますようにですあり難いとか持ったないという言葉は自分に都合の良い時にあり難いとか勿体無いとかだったらこれは誰でも思いもすりゃ言いもする。信心の薄いものでも、または、信心の無い者でもそうです。けれども願っておるのにも関わらずこれほどの修行をしておるのにも関わらず右が左に左が右になるという事は、ね、どうした事じゃなくて、そこにご神意、御神慮があり、いわば、御神愛として分からせてもらうというね、そこに、一切がおかげだぞとあり難いと受けられる、だからそういう稽古ですから、ね、成る程と合点しただけではいかん。実験実証してやはり、信心が十年でも続かなければと教祖が仰る。そういう信心が十年も続いたら、我ながら和賀心をまつれと仰る。反対のこともあり難いと御礼が言えれるようになった時に初めて、私はわが心が拝めれる奉れれるときだと思うです。ね。そういう稽古なんですよ。はあ、お参りした自分の思うようになった、ああなった、こうなった、はああり難い、そりゃ誰だってあり難い。それだけ間違いの無いところに打ち込みながら、ね、右が左になる左が右になるというような時にこそお礼の言えれる信心。をね、させて頂いていうならば早い遅いに関わらずと、いうようにはっきりした答えが出てくるよいうになる。神は一体じゃによって、という事なんですが、ね、いうならば神様のお心にこちらが触れていく信心。それを昨日今日頂いておるようなところで焦点を置いて進めていくならばです、合楽の場合には私自身がもうその事に徹しようとしておる。ね。
それこそ、昨日のご理解ではないけれども、もう泥と水でねりあげこねあげていく一生でありたいと念願を持っておる。だからいつもそこに焦点がおかれる。だから私が言うところは必ずそういう意味のところですから皆さんもそこんところを体験される。体得されておかげを頂かれたらあり難い。ね。合楽でごひれい、合楽で、皆が沢山のご信者が一年一年多くなっていくというのはそういう間違いの無い根本のところに信心が置いてあるからだと思います。
どうぞ